京都を「再考」する

随分と高尚な題名を付けてしまったが実際はただの旅行記である(ちなみに題名を決めてから10日以上放置していたのはここだけのお話)。

私が所属しているマンドリン楽団のメンバーで開催された1泊2日の関西旅行、初日は京都であった。班ごとにわかれて各テーマに沿って観光を楽しむ…さながら大人の修学旅行と言ったところであろうか。

個人的には5年振りの京都訪問で、それ以前にも数回訪れたことがあるが来るたびに違う印象を抱く。中学や高校の修学旅行では街中にさも当たり前のように寺社仏閣や世界遺産が連ねる様子にただ驚いていた。就職活動で訪れた際には自分が京都で働き生活をする様子を思い浮かべ、未来への希望を抱いていたことも事実だ(二次面接で敗退したためそんな希望はあっけなく砕け散ったのだが)。

さて今回の京都、長年思い描いていた行程を実行することができた。それは銀閣を訪問し、哲学の道を歩くというものである。ポピュラーな行程では?と思われる方も多いであろう。しかしこれまでの京都訪問、銀閣方面にあまり興味のないメンバーとの観光やらそもそも銀閣が改修工事中でプランからまっ先に外されるやら、上手く事が運ばないことが多かったのである。

高まる期待に胸を躍らせ、いざ銀閣とご対面。

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銀閣に関しての知識は足利義政と書院造のセット程度のものであるが、その凛とした佇まいに胸を打たれた。と同時にある事に気が付いた。私の周りでは数多くの観光客が銀閣を目にし、写真を撮り、お互いに感想を述べ合っている。にもかかわらず、銀閣と私の間に「静寂」が垣間見えたのだ。別に何かを語りかけてくるわけでもないし、一方的に感情を押し付けてくるわけでもない。ただ「静寂」がそこに存在しているだけである。もしかするとこれまでの京都訪問の際にもこうした「静寂」と出会っていたのかもしれない。それともただ単に年を取っただけなのかもしれない。ただ今回の京都の印象はこうした一瞬の「静寂」との出会いに全てが集約されたのであった。次に京都を訪れる時にはどんな印象と出会うのであろうか。きっとまた違った印象が出迎えてくれるに違いない。

銀閣を後にし、哲学の道を歩き終え、ふと振り返るとやはり「静寂」がそこに存在した。

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